書きなぐり番長

ジャンル問わず、その時その時書きたい事を書いてなぐり。けたぐり。

「スパイダーマン ファー・フロム・ホーム」は、現実世界までも作品の一部にしてしまった

4月の公開から瞬く間に広がった「エンドゲーム」ショック。

それすらも吹き飛ばすパワーに満ちた映画が、「スパイダーマン ファー・フロム・ホーム」である。

 

本作は「アイアンマン」を初めとする、様々なヒーローが活躍する1つの世界を描いたMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)のフェーズ3ラストを飾る作品。「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」で鮮烈なデビューを果たし、「スパイダーマン ホームカミング」、「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」「エンドゲーム」を通じて描かれてきたトニー・スタークとの決別、ヒーローとして「独り立ち」する姿を描く。

学生ヒーロースパイダーマンの身に降りかかる事件を「ホームカミング」以上にコミカルに描きながら、序盤で提示される「指パッチン」問題、ピーター・パーカーを次世代のアイアンマンとして魅せる演出、そして最大の目玉である''異次元からやってきたヒーロー''ミステリオの正体と野望。「エンドゲーム」の余波とMCUのこれからを示唆しつつも、スパイダーマンの続編として見事に成立させた快作であった。

 

そんな今作では前述の通り、ミステリオの正体が肝になる。

中盤で明かされる彼の正体が、全てをホログラム技術と嘘でごまかしていた、文字通りの''見せかけのヒーロー''であったという衝撃の事実。

今作の予告編が公開されてからというもの、「エンドゲーム」の余波を吹き飛ばさんと、「異次元の扉」や「アース833」というワードに思考を巡らせていたファンは多いと思う。かく言う自分もそうであるが、そんな観客は物の見事に、マーベル・スタジオによって騙されていたのだった。

ミステリオによる演説のシーンは、マーベルから観客に向けての盛大な種明かしと受け取っていいだろう。

フィクションであっても、ファンにとってエンドゲームで失った物は大きい。そこを見事に突かれてしまった。

 

それは劇中でも同じで、あの世界の人々は、アイアンマンもキャプテン・アメリカも失った。未知の侵略者によって何もかもが変えられ、兄弟関係が逆転してしまった人や、家を失くした人だっている。だからこそ、ミステリオという新たなヒーローの出現を喜んで受け入れた。彼は不安を抱えて生きる人々にとっての希望の星になったのだ。

 

現実の我々も、「エンドゲーム」で失った物を過去とするかのように、「ファーフロムホーム」の予告編から未来への期待を抱いた。そこにある差は、人々にとってそれがフィクションの出来事かそうでないかだけである。

 

MCUは度々、現実の情勢を鑑みたような要素を作品に取り入れる事がある。しかし今回は、要素どころか現実世界のプロモーションまでも巻き込んで、一つの作品に仕立てあげてしまった。

予告編で我々が様々な憶測を巡らせ、これからに希望を抱く。その事実をマーベルスタジオは見事に予見していた。

ミステリオの「人々は何でも信じる」という言葉は、フィクションを超えて現実でも実証されてしまったという訳である。

もしこれが現実でも起こっているとしたら、と考えさせられるのも気持ちが悪い。

恐るべしマーベルスタジオ。